変化の激しい時代だからこそブレない“言葉”が求められる/九州博報堂コピーライター 中村圭さんの〈クリ活〉

変化の激しい時代だからこそブレない“言葉”が求められる/九州博報堂コピーライター 中村圭さんの〈クリ活〉

好評発売中の書籍『クリ活2 クリエイターの就活本』から派生して、さまざまな人のクリ活話をお聞きする本企画。今回は、九州博報堂でコピーライターとして活躍する中村圭(なかむらけい)さん。中村さんは、新卒で博報堂に入社、その後、外資系広告会社のTBWA HAKUHODOへの出向なども経験し、現在は九州で地域に根ざしたクリエイティブに取り組んでいます。また、書籍『説明は速さで決まる』(きずな出版)の出版やセミナー講演などを通して、「伝える技術」を発信する活動も行っています。

今回は、中村さんの学生時代や博報堂での修行時代のお話、現在九州で取り組むお仕事について、そしてコピーライターの仕事の魅力を語っていただきました。(マスナビ編集部)

写真:中村圭さん
中村圭さん株式会社九州博報堂 コピーライター
2007年博報堂入社。2016年よりに九州支社(2020年に九州博報堂)へ。受賞歴に、カンヌライオンズ金賞、ACC賞ゴールド、福岡広告協会賞 金賞など。著書に『説明は速さで決まる』(きずな出版)。広告制作の傍ら、講演、セミナー、学校での授業などを通じて、コピーライティングの技術を、誰でも使いやすい「伝える技術」にして教えている。
【 目次 】
“コピー漬け”の日々を過ごした学生時代
新人時代に「アイデアを出した人が偉い」の文化を実感
コピーにとどまらないクリエイティブへのチャレンジ
言葉のことなら、企業のトップとも対等に話せる

“コピー漬け”の日々を過ごした学生時代

──どのような学生時代を過ごしていましたか?
社会学部のメディア社会学科で、広告をつくるゼミに所属していました。この学科を選んだのは、当時カタカナの学科が珍しくて、「よくわからないけど面白そう!」と思ったから(笑)。特にメディアを志していたわけではありませんでした。新設学科だったこともあり、同じように物珍しさから入学した同級生も多かったですね。一見、ただのミーハーな学生のようでも、そういう新しいもの好きな人たちは、面白い発想を持っていて、彼らから刺激を受けることも多かったです。こうした環境で仲間と切磋琢磨しながら勉学に励みました。

広告コピーに興味を持ったきっかけは、大学2年生のとき。書店で偶然見かけたポスターでコピーの公募である「宣伝会議賞」を知ったことです。それまでは、言葉を仕事にする職業といえば小説家くらいしか知らなかったのですが、コピーライターという存在をはじめて認識しました。そこから毎年賞に応募し、少しずつ選考の通過率も良くなっていき、「コピーの世界ならば上を目指せるかもしれない」と思うようになりました。僕は幼少期から運動が苦手で、部活動で地区予選を突破するような経験もなかったのですが、はじめて自信を持てたのがコピーだったのです。

そこからはとにかくコピー漬けの生活でした。コピーの講座にも通い、アルバイト先もコピーのために選びました。お客さんの少ない小さなビデオ店で働いていたのですが、選んだ理由は「お客さんが来るとき以外はなにをしていても良い」と言われたからです(笑)。空き時間にコピーを書きたいという理由だけで、アルバイト先を選びました。それほどにコピーを書くことにハマっていましたね。

就職活動では、コピーライターを目指して、広告会社・制作会社を片っ端から受けました。コピーライターが狭き門ということも認識していたので、営業として入社してコピーライターに転向することまで頭に入れて就職活動をしていました。「コピーライターにしてあげる」と言われた会社で、なぜか翌日から飛び込み営業のインターンをすることになったり、不動産広告の会社に営業として内定をいただいたりしたのですが、結果的には運良く博報堂で1年目から目指していたコピーライターになることができました。

新人時代に「アイデアを出した人が偉い」の文化を実感

──博報堂に入社した直後はどのようなことをしていましたか?
入社して最初の3年間はとにかくコピーの修行でしたね。ひたすらコピーを書いては“師匠”に見てもらっていました。例えばコピー案を100個出したうち、「まぁ、これはアリかもね」と言ってもらえるのが1つか2つほど。大学時代から、コピーの課題に取り組んだり、公募に出したりしていたので少しは自信があったのですが、入社してから実践との違いを痛感しました。講座や公募の課題は普遍的なものですが、仕事でのニーズは刻々と変わります。例えるなら、公募が固定された的を射抜く弓道だとすれば、実際の仕事は動きながら的も変わり続ける流鏑馬に近い。刻一刻と状況が変化するなかで言葉を生み出さなくてはならないのです。もちろん基礎を学ぶという意味では弓道も大事ですが、最初はその差を埋めるのに苦労しました。たくさんのコピーを書いて、師匠が選んでくれたポイントはどこなのか、自分なりに研究するなかで、徐々になにが当たるのかという目を養いました。

また、新人研修中に僕が出した企画が、実際の広告に採用されるという嬉しい経験もありました。実際に新聞広告として掲載され、クリエイティブの専門誌で、先輩を飛び越えて「企画・コピーライター:中村圭」と紹介してもらえたのです。クリエイティブの世界では、年齢や社歴に関わらず、良いアイデアを出せば認めてもらえるということを初期に実感できたのはいい経験でしたね。

コピーにとどまらないクリエイティブへのチャレンジ

──その後TBWA HAKUHODOに出向してからは、どのようなお仕事に取り組みましたか?
出向する前までの新人時代は、「コピーライターはコピーを書くことに集中すればいい」と言われて育ちましたが、TBWA HAKUHODOではまったく異なる文化でした。コンセプトとなる言葉を考えながらも、コピーだけでなく、メディアにとらわれず360度に広がるアイデアを出すことを求められました。いまとなっては日本でもそれが当たり前ですが、僕が博報堂にいた当時はまだまだテレビCMやポスターのクリエイティブ企画が主流だったので、文化の差にすごく戸惑ったのを覚えています。

また、外資系の広告会社では、「一業種一社制」といって、同業種内で競合にあたる企業の案件は担当しません。一つのクライアントについて深くアイデアを考えることが求められます。博報堂では拡散的にたくさんコピーを書いていましたが、TBWA HAKUHODOでの仕事はひたすら掘り下げて、担当企業の文化を自分のなかに染み込ませていく。違う筋力を鍛えることができたと感じています。

この時代に培った力は、現在の九州での仕事にも大きくつながっています。その代表例と言えるのは、肥前地域の焼き物をPRするプロジェクト「ヤキモノメイク」です。若年層に焼き物への興味を持ってもらえる施策を展開したいという依頼のもと、焼き物の絵付師さんに、女性の顔にメイクを施してもらうという企画を実施しました。若い人たちに自ら体験してもらい、SNS上で拡散されることを狙いとしたのです。さらに、焼き物ブランド「HIZEN5(ヒゼンファイブ)」を立ち上げ、地元の人たちと一緒に焼き物のアクセサリーやファッション小物などの制作にも取り組みました。一つの言葉を決めて、それに基づいた施策をするという点で、まさにTBWA HAKUHODO時代にやっていたことが役立っていると感じますね。また、九州に転勤する前くらいの時期から、広告業界では最新技術で広告をつくる案件が増えていました。九州でも取り組みたいと思っていたのですが、それができるだけの大規模予算の確保も難しい。その代わり、地方には伝統の技術がありました。伝統工芸との掛け算で「九州でしか生まれない最新」を生み出すことができたと自負しています。

「ヤキモノメイク」プロジェクト



言葉のことなら、企業のトップとも対等に話せる

──今後取り組んでみたいことはありますか?
九州では、東京にいたときに比べてクライアントの社長と直接お話しする機会が増えました。そこで改めてコピーライターの存在意義を感じています。変化の激しいこの時代、多くの企業が、自分たちがどこを目指すのか、どのような存在でありたいのか、いわゆる「パーパス(存在意義)」を再定義する必要性が高まっています。そこに、会社や社長の思いを言語化できるコピーライターが役に立てる。そして、言葉のことならば、僕も社長と対等に話ができると実感しています。実際にクライアントの社長から、「自分たちのことなのに、なぜこんなに小難しいことを言っていたのだろう」「こんなにシンプルな言葉にできたなんて」と喜んでいただけました。企業のトップのパートナーとして一緒に言葉を考えていくことに、やりがいを感じていますし、今後さらに突き詰めていきたいです。

また、コピーライターとしていかに企業の役に立てるのかという軸に加えて、これまで培ってきた経験を活かして、言葉の楽しさを伝えられたらいいなと思っています。九州に来てから、学校のセミナーに講師として呼んでいただくことが増えました。そこで学生さんにコピーを書いてもらうと想像以上に面白いものが出てくるし、皆が楽しそうなのです。コピーは企業のために使うだけではない。特にSNSで自由に発信できるこの時代、言葉を磨くことは誰にとっても必要だと感じています。

──さまざまなキャリアの変遷を辿ってきた中村さんから、変化の激しいこれからの時代に生き残っていくためのアドバイスをいただけますか?
僕は、あらゆる要素を自分のなかに闇鍋のように入れられることが自分の長所だと思っています。はじめからそうだったわけではなく、これまでの経験によって得られたと感じています。最初はコピーライターはコピーだけ書くものと決めつけてTBWA HAKUHODOへ異動になったときも、転勤で九州に行くことになったときも、はじめは文化の違いに苦労しました。しかし、いろいろなことを経験するうちに自分の人生は「変化の人生」なのだとポジティブに捉えられるようになりました。いまでは変化していないと不安になりますね。

時代の変化が激しいので、一つのやり方にこだわっているとすぐに取り残されてしまいます。「広告はこうあるべきだ」「コピーとはこういうものだ」と凝り固まることなく、あまり決めつけない柔軟さを持つことが重要なのではないでしょうか。結局、その時々で取り組んだ一つひとつが後につながってくるはずです。僕自身、コピーライターの下積み時代にたくさんコピーを書いた経験があったからこそ、現在クライアントの社長と言葉について対等に話すことができていると感じています。

──最後に、広告業界を目指す学生さんに一言お願いします!
いまは、これから広告業界に入る人にとってはすごくいい時代だと思っています。なぜなら、僕が新人の頃は下積みが長く、先輩に勝つのがすごく難しかったからです。当時は、ほとんどのクリエイティブがテレビCMとポスターだったので、先輩が何十年も築きあげてきたところに、新人が勝てる余地が少なかった。一方で現在、世の中が激変しているなか、広告会社は新しいモデルやソリューションを開発している一方、次々と新しいメディアも登場しています。これは、毎年違う競技が始まっているような状況です。そこでは先輩との差も少ないですし、広告業界自体が新しい視点を求めている。これから入ってくる方にとってはチャンスの大きな業界ではないかなと思います。

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